一部重複する社もありますが、次のとおりです。
@「大年(おおどし)神社」(資料:大田市地図、大屋町拡大図の@)
祭神は
・「大年神(おおどしがみ)」
大田市大屋町鬼村大年大年
同市静間町和江にも、同名社あり。(資料:大田市地図の)
A「山辺八代姫(やまべやじろひめ)神社」
(資料:大田市地図、大屋町拡大図のA)
祭神は
・「山辺八代姫命(やまべやじろひめのみこと)」
大田市久利町畑ヶ中
同市大代町にも、同名社あり。
この社のある「八代(やじろ)」地名は、もともと「新屋(にいや)」でしたが、鬼村「八代(やじろ)」から「八代姫神社」を勧請するにあたり、地名も変更したものと思われます。
B「鬼加美社」(「鬼神社」)(資料:大屋町拡大図のB)
祭神は
・「鬼神(おにかみ)」(オオドシガミ)(資料:大田市地図)
大田市大屋町鬼村大年
『石見史』に見える社ですが、現存しません。
C「金比羅神社」(資料:大屋町拡大図のC)
祭神名未調査
大田市大屋町鬼村吉沢荒神山
同市仁摩町宅野にも、「大物主命」を祀る同名社あり。
D「大屋姫(おおやひめ)神社」(資料:大田市地図、大屋町拡大図のD)
祭神は
・「大屋津姫命(おおやつひめのみこと)」
大田市大屋町大屋荒神山
E「大国主(おおぐにぬし)神社」(資料:大田市地図、大屋町拡大図のE)
祭神は
・「大国主命(おおぐにぬしのみこと)」
大田市仁摩町大国(おおぐに)八千矛山(やちほこやま)
F「白石(しらいし)神社」(資料:大田市地図のF)
祭神は、もとは、
・「大国主命(おおぐにぬしのみこと)」でしたが、
現在は、
・ 「誉田別命(ほんだわけのみこと)」
・「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」
・「足仲彦命(あしなかひこのみこと)」
創立年代不詳
大田市仁摩町大国(おおぐに)天河内(あまごうち)
G「大元(おおもと)神社」(資料:大田市地図のG)
祭神は
・「大元神(おおもとがみ)」(オオグニヌシ?)
大田市大屋町大国(おおぐに)尾波山(おなみやま)
『石見風土記』に見えますが、現存しません。
大国(おおぐに)地に、「大元神」を祀る「大元神社」です。
全国の「大元神社」の祭神は、こぞって
「国常立神(くにとこたちのかみ)」ですが、
この石見国大国の「大元神社」のみが、
「大元神(おおもとがみ)」なのです!
「大国(おおぐに)」がオオグニヌシ本貫地であることから、地元からの総反発にあい、戦勝者もこの社の祭神名だけは、改ざんできなかったようです。
「大国(おおぐに)」(地名)の
「大元(おおもと)の神(かみ)」であることから、
この神は「大国主命」以外にはありえない
と考えます。
よって、
この社が、全国の「大元神社」の本貫地である!
と推察するのです。
「大元神社」は、オオグニヌシが大国天河内に「宮処」を構える以前の住まいだったのではないでしょうか?
H「五十猛(いそたけ)神社」(資料:大田市地図、大屋町拡大図のH)
祭神は
・「五十猛尊(いそたけるのみこと)」
・「素盞嗚命(すさのをのみこと)」
大田市五十猛(いそたけ)町湊(みなと)
I「韓神新羅(からかみしらぎ)神社」(資料:大田市地図のI)
祭神は
・「素盞嗚命(すさのをのみこと)」
・「大屋津姫命(おおやつひめのみこと)」
・「抓津姫命(つまづひめのみこと)」
大田市五十猛(いそたけ)町大浦(おおら)
J「韓島(からしま)神社」
祭神は
・「素盞嗚命(すさのをのみこと)」
大田市仁摩町宅野韓島(からしま)
前出「韓神新羅神社(からかみしらぎじんじゃ)」のある、五十猛町の隣町、宅野の日本海に浮かぶ「韓島(からしま)」に鎮座します。
スサノヲが、韓国新羅に出入りしていたことにちなむ社名であろう思います。
K「物部(もののべ)神社」(資料:大田市地図のK)
祭神は、スサノヲの孫でニギハヤヒの子
・「宇摩志摩遅尊(うましまぢのみこと)」
創立は、514年頃
大田市川合町神領
全国の「物部(もののべ・ものべ)」姓・地名の本貫地であろうと思います。
大田市の神社の中では、全国的に最も知名度の高い社です。
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K「 物部(もののべ)神社」
祭神:「宇摩志摩遅尊(うましまぢのみこと)」
【鬼】と書かれた的を弓矢で射る「奉射祭(ぶしゃさい)」を、この社では特に、「大歳(おおどし)」と呼ぶ。
島根県大田市川合町神領 |
諸々の書物に、ウマシマヂは、物部氏の遠祖であると見えますが、これがどうにも筆者には納得がいかないのです。
そもそも、
「物部」とは、
物(大蔵)+部(省)=「大蔵省」をいう
ことから、国の財務をつかさどる中央行政機関であり、その地位からいって【鬼一族】のナンバーワンの家来であったはずです。
【鬼一族】の金庫番です!
「部」は、「九州王朝」まで(七世紀末)続いていた
職能集団をいうことから、「臣下」なのです。
それにひきかえ、ウマシマヂは、ニギハヤヒの子でありスサノヲの孫であることから、【鬼一族】「石見王朝」直系の「王族」です。
このことから、「臣下」=「王族」なる図式など成立し得ず、
ウマシマヂ以前から【鬼一族】に仕えた一番の家来が、
大蔵省こと「物部」であった!
と考えるのが妥当でありましょう。
後に、ウマシマヂが「物部氏」の娘を娶り、婚姻関係が生じたことから、ウマシマヂは「物部」の遠祖である≠ニしているのかもしれませんが、前述のことから、
もともと、「物部氏」は王族ではないのです。
ゆえに、【鬼一族】一番の臣下「物部(もののべ)」が、己が
本拠地に、主君ウマシマチを祀ったのが、石見一ノ宮「物部神社」であると考えます。
「物部神社」は、大田市のほかに、
富山県高岡市
新潟県刈羽郡、上越市、柏崎市、佐渡市
山梨県笛吹市
愛知県名古屋市
滋賀県守山市
三重県久居市
等々にも鎮座します。
これらの社は、いずれも鉱物産出地に存在していることから、大蔵省こと「物部」が、王家【鬼】に伴い侵入していったものと思われます。
石見の「物部神社」の神事に不思議な呼称があります。
節分時、各地で行われる「奉射祭(ぶしゃさい)」です。
この社においては、これを
「大歳(おおどし)」と呼ぶのです。
【鬼】と書かれた文字、鬼面なる的に弓を射るという「奉射祭」は、全国各地に存在しますが、この神事を特に、
オオドシと称すのは
石見国の「物部神社」だけなのです!
全国には、【鬼】を祓う神事≠ノ、この「奉射祭」をはじめ、「鬼払い」、「節分祭」、「鬼遣(おにやらい)」、「追儺(ついな)」等々があります。
これらの悪しき化け物・悪魔こと【鬼】を追い払う儀式を、何処も「鬼払い」・「鬼追い」などと呼ぶのに、なぜ石見国「物部神社」のそれは「大歳(おおどし)」(「大年」)なのでしょうか?
その理由は…
前述の通り、「物部」は【鬼一族】の筆頭臣下であったことか
ら、鬼なる的に弓を射る事≠ヘ「踏み絵」に等しいことです。
これは、主君【鬼】に対する反逆行為そのものです。
いかに勝者(近畿王朝)の強制儀式といえど、【鬼一族】ナンバーワン臣下の「物部」としては、承服できぬことであったに違いありません。
今でも、各地に存在する「鬼払い神事」の数々は、戦勝者側が、手強き【鬼】を討伐し、自らを正義の大将にまつりあげるために、【鬼】の幕引きを図るためのものであったと考えます。
そこで、全国津々浦々の神社・寺院に、これらの儀式を強制的に行わせた…と推察するのです。
裏を返せば、それほどまでに大々的に、【鬼】追放を敢行せねばならぬほど、
【鬼】は、長きに渡り
人望厚き優秀な一族であったということが
全国津々浦々に知れ渡っていた
という証でありましょう。
それにしても、一体何故、この「物部神社」の儀式を「おおどし」と呼ぶのでしょうか?
「節分祭」、「奉射祭」において、実に憎き【鬼】なる的を弓で射抜くというウサバラシはできても、こと石見の地では、【鬼】拝斥運動=強制的に押し付けられる鬼払い儀式≠ノ対する地元の反感は、相当のものであったに違いありません。
【鬼一族】のお膝元ゆえ、【鬼】を崇める子孫・信奉者達は、
この「鬼払い」に、かなり強く抵抗・反発したと思われるのです。
戦勝者の時代となってからというものは、彼等もこの強制儀式を受け入れざるを得なかったのでしょうが、
【鬼】は、追い払われるような悪しき者ではなく、
民の信望厚き、累々と続いた優秀な王族であった
ことを、後世に語り継ぐ意味で、「物部神社」におけるこの「奉射祭(ぶしゃさい)」を、特に「オオドシ」と呼ぶものと推察するのです。
このオオドシとは、【鬼一族】元祖「大年神(おおどしがみ)」をいうのではないでしょうか?
祭神ウマシマヂの父、ニギハヤヒの若かりし頃の名もまた、「大歳(おおどし)」でしたが、「物部神社」が、【鬼一族】本貫地と至近距離にあること、「歳」は「年」の借字であることから、この社の「奉射祭(ぶしゃさい)」=「おおどし」とは、元祖「大年神」を指すものと考えるのです。
かつては、栄華を極めた【鬼一族】…。
「物部神社」の【鬼】払い儀式=「奉射祭」…。
滅び行く【鬼一族】への「挽歌」とも思える呼称が、この
「大歳(おおどし)」であり、今に語り継がれているのではないでしょうか。
「物部」地名は、
兵庫県
京都府
千葉県
高知県
栃木県
等々にも存在します。
L「新具蘇姫命(にくそひめのみこと)神社」
祭神は
・「新具蘇姫命(にくそひめのみこと)」
聖武天皇の天平十三年(741)創立
大田市川合町吉永
下品なる?鬼言葉では、「メシ(ご飯)・クウ(食べる)・クソ(糞)」であることから、このニクソヒメは、もとは、
ニは、「和爾(わに=鬼)の「爾(に)」
クソは、「具蘇(くそ。糞)=肥料
つまり、鬼の肥料の姫=【鬼一族】所有する農作地用の肥料を管理する女神のことであろうと思います。
小山がいくつも連なり、平野部の極めて少ない大田市においては、古代、稲作用の田地における糞は、大切な有機肥料であったに違いありません。
よって、「新具蘇姫(にくそひめ)」は、もとは、「鬼糞姫(おにくそひめ)」だったのではないでしょうか。
M「邇幣姫(にべひめ)神社」
祭神は
・「邇幣姫命(にべひめのみこと)」
・「大屋津姫命(おおやつひめのみこと)」
・「抓津姫命(つまづひめのみこと)」
創立年代不詳
大田市長久町土江
N「佐比売山(さひめやまひめ)神社」
祭神は
・「佐比売山神(さひめやまのかみ)」
(「佐比売」はスサノヲの子「須世理姫」か?)
・「大巳貴命(おおなむちのみこと)」(オオグニヌシ)
・「少名彦名命(すくなひこなのみこと)」
相殿(あいどの)に、
・「大歳神(おおどしのかみ)」(「大年神」か?)
寛平三年(891)の創立
大田市三瓶(さんべ)町多根(たね)
この社のある三瓶町多根は、往昔、「大巳貴命(おおなむちのみこと)」・「少名彦名命(すくなひこなのみこと)」が国造りの際に、伯耆国大神山に住し農の道を開き、飯石郡琴引山に至り、さらに当村に来たり。
鋤・鍬の業を始め給い、種を蒔きおろし給いしにより、この里を大田郷多根村というと、『出雲風土記』に記される地です。
「佐比売山(さひめやま)」は、『国引き神話』で、「八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)」が「大神山(おおかみやま)」(鳥取県「大山」)、「佐比売山(さひめやま)」(島根県「三瓶山」)の二つの山に柱を立て、国来国来(くにこくにこ)と云いながら、綱で島や陸をたぐり寄せ国造りをしたという「三瓶山(さんべさん)」の旧称です。
前出の古田説では、『国引き神話』(出雲建国)では、柱を大山(だいせん)・三瓶山に立て、これに綱を掛け陸地を引き寄せるという、国引き用の綱・木の道具類は、銅器以前のかなり古い縄文時代の話であるとのことから、縄文時代(旧石器時代?)から歴史に登場する「佐比売山」にちなむ社名です。
同市鳥井町、大森町にも同名社あり。
O「静間(しずま)神社」
祭神は
・「大巳貴命(おおなむちのみこと)」(オオグニヌシ)
・「少名彦名命(すくなひこなのみこと)」
大田市静間町垂水(たるみ)
光孝天皇の仁和二年(886)、同町魚津「静ヶ窟(しずがいわや)」に鎮座していましたが、延宝元年(1673)高波被害に遭ったため、この地に遷座しました。
『万葉集』に、「大汝(おおなむぢ=オオグニヌシ)少名彦名のいましけん 志都(しづ)の石室(いわや)は 幾代(いくよ)経(へ)ぬらん」と、生石村真人(おいしのすぐりまひと)が、「静ヶ窟」で詠んだ歌があります。(「志都の石室」=「静ヶ窟」)
オオグニヌシとスクナヒコナが、国造りに妙案を練った所であ
るとか、戦に負けて逃げ返り、身をひそめた場所であるなどと、諸説飛び交う石室です。
かつての社地である畳二十帖大のこの洞窟は、筆者が子供の頃には、海水浴時の更衣・休憩所に使っていたことから、古代においても、オオグニヌシは、対馬海流に面するこの「静ヶ窟(しずがいわや)」を休息地にしていたのかもしれません。
近年は、風化著しく危険であるため、出入り禁止となっています。
P「城上(きがみ)神社」
祭神は
・「大物主命(おおものぬしのみこと)」(オオグニヌシ)
貞観五年(865)創立
大田市大森町宮の前
この社は、世界遺産「石見銀山」の入り口にあり、大田市大屋町「大国」との境に位置し、オオグニヌシを祀ることから、「城上(きがみ)神社」は、「鬼神(きがみ)神社」ではないでしょうか?
十六世紀、良質で多くの《銀》を産出することから、その名をヨーロッパにまでとどろかせた「石見銀山」ですが、近郊に、《鉛》、《石膏》、《銅》を産出する鉱山が点在することから、古代は銀のみならず、他の鉱物をも産出する【鬼一族】の「宝の山」であったと思われます。
大森(おおもり)(「大年神」を守る、「大守」か?)
宮の前
「大物主命」(オオグニヌシ)
「城上(きがみ)神社」(「鬼神神社」?)
等の名称から、この社は、【鬼一族】石見銀山支店であったと考えます。
Q「闢靂(びゃくらく)神社」
祭神は
・「別雷神(わけいかづちのかみ)」(ニギハヤヒ)
創立は、大同三年(808)?
大田市温泉津(ゆのつ)町湯里(ゆさと)
R「乙見(おとみ)神社」
祭神は
・「大巳貴命」(オオグニヌシ)
大田市仁摩町馬路(まじ)
S「龍御前(たつのごぜん)神社」
祭神は
・ 「大巳貴命」(オオグニヌシ)
・ 「少名彦名命」
大田市温泉津町
このほか大田市には、オオドシガミを祀る「大年神社」が、仁摩町、三瓶町、川合町、大代町、温泉津町、五十猛町、久利町にもありと『石見史』に見えます。(現存しないものもあり)
以上、大田市における、【鬼一族】の「神々」を祀る神社の数々です。
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